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ワイン産業の歴史

ポルトガルワインの歴史 ~ワインの歴史は4000年前に始まった!~

紀元前2,000年~7世紀 **フェニキア人、ローマ人そしてキリスト教の時代**

紀元前2,000年~7世紀

最初にぶどう栽培をポルトガルに伝えたのはフェニキア人(現在のシリアの一部)で今から約4,000年前の事と言われています。南部で始まったワイン造りはその後ローマ人によって北部まで広がり、キリスト教が入ってきた西暦2世紀ごろからワインはさらに宗教儀式にも使われるようになり発展しました。

7世紀~14世紀 **イスラム教の支配からキリスト教への復活**

7世紀~14世紀

ローマ人によって広がったワイン造りはポルトガルにとって大切な産業となり、8世紀からのムーア人の占領下の初期は衰退することなく輸出も行われ繁栄が続いていました。その後、アラブ支配が強くなるとイスラム教徒によるアルコール禁酒令による衰退はやむを得ないことでしたが、イベリア半島としては早い12世紀初頭には北部がキリスト教の支配に戻り、徐々にムーア人は国外退去となり13世紀には全土でぶどう栽培が復活し活気を取り戻しました。

15世紀~17世紀 **イギリスとの防衛の始まりそしてエンリケ航海王**

15世紀~17世紀

14世紀に入ると、ポルトガルの同盟国であるイングランドはフランスと頻繁に対立することが多くなり、ワインの供給元をポルトガルに頼るようになりました。1386年のウィンザー条約により、北部のViana do Casteloヴィアナ・ド・カステロ港(現ヴィーニョ・ヴェルデ地方)からワインがイングランドに輸出されるようになり、その後はリスボンからも多くのワインがイギリスに向けて輸出されるようになりました。エンリケ航海王によって新大陸への取り組みが始まりマデイラ島とアソーレス諸島を発見し、そこを寄港地とし新大陸へと市場を拡大させていきました。

18世紀~19世紀 **ポルトワインとマデイラワインの発展**

18世紀~19世紀

中世から近世までイギリス、スコットランド、オランダのワイン商はポルトガル北西部の港町に本拠地を置き活発に商売を続けていました。ヴィーニョ・ヴェルデを流れるリマ川が港町のヴィアナ・ド・カステロの付近で泥土によって使えなくなると、そこから70kmほど南のOportoオポルトと対岸のGaiaガイヤの街にワイン商の拠地が移されることになりました。この国際的なワイン商の力は17世紀半拡大し続けました。特に当時スペインとの戦いが絶えなかったポルトガルは同盟国のイギリスの軍事力を必要とし、1654年の条約で軍事力との引き換えにイギリスの商人に関税特権を認めることとなりました。

1662年、イギリスのチャールズ2世はポルトガルのAlfonso VIアルフォンソ6世の妹、Catarina de Bragançaカタリナ・デ・ブラガンサ(英語名キャサリン・オブ・ブラガンサ)と結婚しました。その後間もなくイギリスとフランスの関係が再び悪化し、両国の間で1689年に戦争が勃発することになります。当時の英国の税関の書類を見ると、フランスワインからポルトガルのワインへの急速な切り替えを伺うことができます。イギリス人のワインへの執着により、関税の引き下げを常に政治的な駆け引きを使い、1703年にはTreaty of Methuenメシュエン条約(イギリスの駐ポルトガル大使ジョン=メシュエンに由来)によって、それまで自国製品を守るために輸入を禁じていたイギリスの毛織物を輸入する代わりにポルトガルワインをフランスの関税の3分の1とし、輸出量を増やすという提携が結ばれました。これによって、ポルトガルの貿易はさらにイギリス依存に傾向し、ポルトガルワインの税制上の優遇措置は1860年まで続くこととなりました。
そのうち、イギリスのワイン商はより骨格のしっかりした赤ワインを求めポルトのワイン商はMarãoマラン山脈の東にあるドウロ川沿いにある急斜面の畑で造られるワインに注目するようになりました。粗野なドウロワインは、安定を保つためにブランデーで強化されることによってワインに安定性を持たせることを考え、結果ポルトワインが誕生しました。イタリア人とポルトガル人とで始まったマデイラもその後英国のワイン商も加わりアメリカ大陸での大きな市場につながりました。そして、18世紀になるとマデイラのワインは酒精強化され長い航海で熱熟成するようになりました。

一方、ドウロのワインはヴィーニョ・ヴェルデの赤や、バイラーダ産の赤で量を増やしてほしいとの要求がポルトのワイン商からありました。このようにポルトワインの交易を公然と支配していたイギリス人による不正行為が卑劣でワインの品質は低下していました。その上、ぶどう栽培に向かない畑でも栽培が広がり、味わいを良く見せるためにスペインワインとブレンド、エルダー・ベリー・ジュース(西洋ニワトコの実)で着色など様々なトリックが行われるようになりました。

このようなイギリス人の不正を抑え、ポルトガルのぶどう栽培者、ワイン生産者を守るために、ポルトガル初代の大臣のセバスチャン・ホセ・デ・カルヴァリョ(後にポンバル伯爵)は1756年、新しい法律を導入し、ポルトワインの生産のためのぶどう畑を定めました。これが世界最初の原産地呼称の始まりでした。色をごまかすために使われた西洋ニワトコの木を伐採する命令を出し、マデイラではブラックチェリーの樹を一掃するように命じました。その他、ポルトガルの他の地域では、ぶどう栽培に向かない低地の湿地に植えられていたぶどうから当時不足していた穀物への転作を行います。

19世紀~20世紀 **病害との戦い**

19世紀~20世紀

19世紀初頭にはスペインからの脅威やフランスによる3回の侵略がありましたが、ポルトガルとイギリスの連合軍によって最終的には勝利を収めました。

その後、19世紀の半ばには他のヨーロッパ諸国と同様、ぶどう畑は病害に悩まされました。ぶどう畑に蔓延したフィロキセラはドウロから徐々に南に広がっていきました。解決策としてフィロキセラに耐性のあるアメリカ品種に接ぎ木をするか交配種を栽培するかの選択となりました。アメリカーノとして知られる交配種と北米品種はフィロキセラ害が終焉すると栽培が禁止されることになります。

20世紀初頭~1974年 **サラザール首相のワイン改革とコーポラティブの発展**

20世紀初頭~1974年

20世紀初頭のポルトガル君主制から共和国としなり、ワイン業界も、マデイラ、モスカテル・デ・セトゥーバル、カルカベロス、ダン、コラーレス、ヴィーニョ・ヴェルデなど、さまざまな地域で原産地呼称の制定が始まりました。原産地呼称が制定された当初は市場においては殆ど効果がありませんでした。1928年、António de Oliveira Salazarアントニオ・デ・オリベイラ・サラザールが財務大臣になり、その4年後に首相となり実質的に独裁者としてポルトガルを支配した36年間にポルトガルのぶどう栽培と農業を改革し、ワインの生産、販売、マーケティングを組織化し規制する強力な機関を設立しました。例えば、ワイン醸造に向いていないとされたアレンテージョ地方では小麦栽培を優先することとなりぶどう栽培が行われなくなりました。

第二次世界大戦では中立の立場を取っていたポルトガルにおいてもワインの市場は崩壊し、余剰ワインの問題が起きました。そのような中1942年、若い起業家のFernando Van Zeller Guedesフェルナンド・ヴァン・ツェラー・ゲデスと友人が集まり、価格崩壊によって安価で供給されるワインを使って輸出市場向けにMateus Roséマテウスロゼを生み出しました。ピンク色で軽い発砲があり、やや甘口のワインは急成長しました。その後、似たようなワインのLancersランサーズもアメリカで大成功を収めました。ランサーズの成功によって、小規模農家が集まりコーポラティブ(協同組合)の動きが活発化しました。フィロキセラ害の後に始まったコーポラティブでしたが、実際に大きな組合に発展したのは第二次世界大戦後の事でした。拡大し、競争力を付けたいコーポラティブ(協同組合)には民間のワイン業者は財政面では勿論、市場での販売力においても太刀打ちができず、個人のワイン生産者は廃業するか、コーポラティブに入るかの選択を余儀なくされました。当時コーポラティブで大量生産された安価なワインの殆どは国内とポルトガルの植民地で消費されていました。1960年代は植民地の独立が起き、政治的・経済的不安定が引き金となり1974年に革命(カーネーション革命)が起こり、36年続いたサラザール政権は終焉となりました。 1976年のポルトガル初の逝去が行われ国の秩序は復活し始めましたが、ワイン市場はまだ混乱が続きました。

1980年~  **EU加盟と民主化、高品質ワインへの急速な動き**

1980年~

ポルトガルは1986年に欧州共同体(EU:欧州連合)に加盟しました。それまでの多くの制限のもと行われていたワインの取引は自由化され、コーポラティブの独占的な市場は徐々に終わりを迎えるようになりました。ポルトガルワインの品質を守るための、カテゴリーと規制が導入され、ワイン産業を監督するInstituto da Vinha e do Vinho(IVV:インスティテュート・オブ・ヴィニャ・エ・ド・ヴィニョ)が、各ワイン地域の「ぶどうとワイン委員会」(CVR :Comissão Vitivinícola:Regional Vine&Wine Commission)と共に設立されました。そしてEUの融資と助成金により、近代的なぶどう栽培、ステンレスタンクを導入したワイナリーなどが増えてきました。

1990年代に入ると大学でぶどう栽培とワイン醸造を学ぶ生徒が増え、ここで学んだ若いワインメーカーは世界中でワイン造りの経験を積みポルトガルワインの発展に寄与するようになりました。

その結果、quintasキンタス(エステート)と呼ばれる多くの小規模ワイナリーが増え、嘗てはコーポラティブ(協同組合)に供給していたぶどう栽培農家は自分でワイナリーを持つようになりました。いくつかのぶどう畑では、国際品種の栽培も活発に行うようになり、一方では古来品種を大切に栽培するなど、個性豊かなワイン造りが活発化しています。

他企業からあるいはワイン愛好家の投資も進んでいて、新しい感覚によるワイン産業が継続されていることも大切な事柄です。その結果、ポルトガルには今までにないほど高品質ワインを世界に提供する国として世界で認知されるようになってきました。